2011-12-08 第179回国会 衆議院 災害対策特別委員会 第4号
一八九一年に濃尾地震が起こったときに、政府は震災予防調査会というものを立ち上げました。震災予防調査会で、地震について調査研究を行うと同時に、火山噴火についても調査研究を行うということを任務として決めまして、そこで日本噴火志という立派な出版物を出しております。日本じゅうでどのような火山が噴火するかということを調査したわけであります。 その後で、一九二三年に関東大震災が起こりました。
一八九一年に濃尾地震が起こったときに、政府は震災予防調査会というものを立ち上げました。震災予防調査会で、地震について調査研究を行うと同時に、火山噴火についても調査研究を行うということを任務として決めまして、そこで日本噴火志という立派な出版物を出しております。日本じゅうでどのような火山が噴火するかということを調査したわけであります。 その後で、一九二三年に関東大震災が起こりました。
その中で吉村さんは、関東大震災後に出版された「震災予防調査会報告」なるものを引用しながら、こういうことを指摘されているわけであります。簡単に要点だけ申し上げます。 関東大震災は、甚だしい家屋の倒壊をひき起したが、それによって起った火災が猛威をきわめた。
○政府委員(滝実君) 御指摘ございましたように、関東大震災の際にも震災予防調査会が火災に関する報告書を残していただいております。それを拝見いたしますと、確かに常緑広葉樹が火災の延焼拡大に非常に効果があったということが写真入りでかなり記述されているわけでございます。
そのときに震災予防調査会というものができまして、その会長に理学博士の菊池大麓さんという方がなられたのでありますが、その報告書の緒言に書いてありますことは、「本会調査ノ事業ハ着々歩ヲ造ムト雄猶創業ノ際二属スルヲ以テ諸般ノ準備二日子ヲ要スルコト砂カラス且此事業タル概ネ短日月ノ間二於テ其成績如何ヲ観ルコト能ハサルモノナリ」というふうにあるわけであります。
一九二三年の関東地震の際には、当時文部省に震災予防調査会というのがありまして、その調査会が非常に広範な調査研究をしました。有名な物理学者の寺田寅彦が、物理学者ですけれども火事の研究をした。この間亡くなった元気象庁長官の和達先生などもそういう調査に参加されたわけですね。その報告は「震災予防調査会報告」第百号、これはちょうど第百号になったんですね。
寺田寅彦が、天災は忘れられたころ来るという有名な言葉を吐いたこと、夏目減石の高弟の文人であったこと、そして東京大学の地球物理の教授であったこと、御存じのとおりでありますし、震災予防調査会の重鎮であったことも皆さん方御存じのとおりであります。その彼が昭和九年の十一月に「天災と国防」という論文を書きまして、以下のように言っております。 もう時間がございませんが、彼は非常時という言葉を使っている。
日本における地震対策のきっかけといいますか、初期のころの動きと申しますものは、明治二十四年の濃尾地震の後、震災予防調査会というのがつくられて、そのときに、濃尾地震というのは、はっきり申しまして、今日言います都市災害的な様相というのをかなり示して、その当時の記事によりますと、とにかく文明開花がかなり進んでくるとどうも人間社会というのは地震に対して弱くなって、思わぬ災害が起こってくるじゃないか、そういうことを
ではなかったんですけれども、れんが造が全滅であったということで、少なくとも構造面におきましては欧米文化をそのまま地震国に受け入れることができないのだということ、これは工学の方面の人の関心もむろんでございますけれども、一般の人たちの関心も多かったものですから、直ちに議会が取り上げまして、当時の貴族院が取り上げまして、全会一致でもって、国家機関として地震並びに耐震構造の研究をやるべきだというので、震災予防調査会
この東京大学の地震研究所のその源は震災予防調査会というものだそうです。これは明治二十四年、あの濃尾地震があってから、当時の貴族院議員菊池博士の提言によって設置されて、今日まで続いておる。いま東京大学の地震研究所となって引き継がれておる。だから、わが国の地震研究は世界に冠たるものがあるといわれているほど、地震研究は非常に進んで今日に至っているわけであります。
そして、翌年の一九一一年に震災予防調査会と長野測候所、いまの長野地方気象台ですが、そこの協力で浅間山に火山観測所ができた。
○参考人(森本良平君) たいへん、こう、いろいろな含みが入っている御質問と申しますか、いろいろな意味のことが考えられるのでございますが、地震研究所ができました直接の原因と申しますのは、濃尾地震のときに震災予防調査会ができまして、それが関東大震災のあとで発展的に解消して地震研究所となったわけでありますが、一つには、日本という非常にこれは地震が多い場所でありまして、そこに研究所を設けまして、地震そのものの
そのときに震災予防調査会というものをつくったわけです。そうしてそのときの会議録というようなものを見ますと、地震の予知を研究しなければならぬということで調査会をつくる、こういうことで当時予算が二万円ついておったのであります。ところがこの二万円の予算というものは一向に上がらない。
○松平委員 関東震災後、震災予防調査会が廃止されて、東大の地震研究所ができた。そのときの衆議院における提案を見ておりますと、やはり同じことを言っております。三十年、四十年後には地震予知をするんだ、できるんだ、だから予算を出すんだということを当時の国会では言っておるわけでありますが、すでに三十年、四十年経過しておる。
震災予防調査会は地震に関する研究を進めるということでできたように聞いております。それができましたときに、すでに地震の予知ということが当時問題になったと聞いております。
そこで、地震に対する観測機関として、濃美地震の直後国会で決議をいたしましてできたのが、皆さんも御承知の震災予防調査会、これでありまして、貴族院の古い記録を取り寄せて見ますと、明治二十四年ですが、菊池大麓さんがこの提案理由の説明をいたしておるのであります。皆さんも御承知のように坪井忠二さんの本がございますが、この中に菊池大麓さんのそのときの提案の趣旨を引用してございます。
○松平委員 先ほども申し上げたとおりに、明治二十四年に発足した震災予防調査会、それも地震予知ということを最終の目標として四十年ないし五十年後にこれを実現するんだということを、当時の貴族院では提案者は説明をいたしております。ところが、一向に成果があがらないというのは、どこに原因があるのか。
例えば地震のことにつきましても、これは大正十二年の地震後にできたわけでございますが、震災予防調査会というものができまして、地震研究に対するいろいろ研究が非常に進められましたが、あのときもああいうものを中心にいたしまして、いろい実施機関から調査機関からそういう関心を持つておられる専門家の方々がお集りになつて、内容を研究して、どういうことを調査をし、どういうことを研究すべきだろうかというプログラムを立てて